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関寺小町

         関寺小町    梅若玄祥師 大槻能楽堂


         能では、「老い」と「女」は最も大きなテーマだとされ、従ってその二つを兼ねた老女物と言われる
         能は難しく、その中でも「姨捨」「檜垣」「関寺小町」は究極の老女物と言われている。
         嬌名一世を風靡した才色兼備の小野小町が、衰えて百歳の老婆となり零落しているが、客人の
         所望で昔を偲ぶ舞を舞う。

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         その老いかがんだ姿の中に、全盛期にも勝る美しさを見せようというもので、徒然草に「花は盛りに、
         月は隈なきをのみ見るものかは」として、「しぼめる花の色無うて匂い残れる風情」を讃えている。
         序の舞も「静かな中の舞」といわれ、柱に凭れる休息や老女足もありながら、悟りの境地を静かに
         舞い続けるのは見事である。

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         一代の名手が、一生に一度だけの関寺小町、それまでの芸の全てを忘れ、赤子の心に戻って
         全く無心に演ずるやり方。これを「却來花」というと世阿弥の遺した伝書の中にあるという。

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         能の舞台で老人を演じるとき、腰を曲げよぼよぼと歩いては駄目だと言われる。それでは「老い」
         を演じていることにはならないというのだ。老人と言うものは人から「老いたとは見られたくない」
         から精一杯若く見せようとするものなのだと。だから、いかにも年寄りらしく腰を曲げよぼよぼと歩く
         のではなく、腰を伸ばそうとしてはいるが、どう見ても歳は争えない様を演じてこそ「老い」を演じた
         ことになるのだと言う。人間の心の深層を捉えて巧みなものである。
         「老い」とは何かという問題は体だけでなく、「心の老い」の問題でもあり老いを受け入れる事の難し
         さを、この歳になって私も否応なしに感じさせられていることである。        

         今日四月一日は私の誕生日、満八十二歳の私はもはや棺桶に片足を突っ込んだようなものである。
         あの世で絶世の美女百歳の小町に逢ってみたいと思う反面、傍からはどうみても老いさらばえた
         半ボケ老人だと笑われようと、本人はまだ若い?つもりで、もう少しこの世の成り行きをしかと見
         届けたいと思う今日この頃である。
by kame0401 | 2014-04-01 10:34 | 舞台寸描 | Comments(0)

人生二毛作を目指して・・・

by kame0401
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