義父の遺したロシア未来派の絵


私のガラクタ美術館(13)

   義父の遺したロシア未来派の絵 <その2>

そうこうしているうち、平成14年になると東京の町田市立国際版画美術館のT氏から手紙が届いた。
それは当館企画の「極東ロシアのモダニズム1918~1928」と言う美術展にあのイムレイの絵を
借りたいとの申し入れであった。先の西宮の大谷記念美術館のN氏(現在は国立国際美術館所属)
から聴いての話とのことで、勿論喜んで提供する旨返事をした。

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  「極東ロシアのモダニズム1918~1928」の図録に載ったイムレイの絵

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    大正9年9月6日の東京日日新聞に載ったイムレイの記事

町田市立国際版画美術館のT氏から頂いた資料などで、イムレイのことが少しづつ判ってきた。
この新聞記事もその一つであるが、イムレイの写真まで手に入るとは想いもしなかっただけに
嬉しかった。
「イムレイの作家略歴」  イムレイ、フェレンツ Imrey,Ferenc 1885(86) ベーチュー??
ハンガリーの美術学校を卒業し、ローマやパリで遊学した後、ブダペスト国立高等工芸学校の
教授になる。
第一次世界大戦にハンガリーの将校として出征し、1914年のガリツィアの戦いで負傷し
ロシア軍の捕虜となりシベリアに幽閉される。釈放されて、ウラジオストックで未来派の
ブルリュウクらと交流をもち、その後日本・アメリカを経て帰国の途中に東京で個展を開く。


それは第一次世界大戦とそれに続くロシア革命(1917)による混乱から逃れて、多くの人が
シベリヤ鉄道で極東へ逃れ、そしてウラジオストックから更に敦賀に上陸し横浜からアメリカ
へ渡ったという激動の時代であった。5年間のシベリヤでの捕虜生活から解放されたイムレイ
も、その渦の中にいた一人だったのだろう。

先の第二次世界大戦のときに、杉原千畝氏の命のビザで救われた6000人のユダヤ人も
シベリヤ鉄道で、そしてやはりウラジオストックから日本を経てアメリカへ逃れたことを考え
ると、このルートの持つ歴史的な意義は大きいものがある。
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義父は故郷富山から来阪し、紳士服テーラーとして心斎橋に店をもち活躍した人である。
大正9年といえば、義父は二十歳になったばかりである。感受性豊かな義父が、激動の時代の
空気を肌で感じとり、「未来派」と言う言葉に共感を覚えたのかもしれない。
義父は若い時から研究心が旺盛で色んな特許を考案し、次々と特許の申請をしていた。
なにしろ、亡くなる91歳の年にも「洋服の立体裁断法」で特許を取得した程の人なのである。

義父が、イムレイの絵について口癖のようにロシア未来派の絵だと自慢していたのは、つねに
未来に向かって前進して止まなかった義父の「未来派人生」の象徴がこのイムレイの絵だった
のかも知れない。

小さな紙に描かれたこの絵は、恐らくシベリヤ幽閉時代に描かれたものだろうが、燃え盛る
革命と戦火の炎の中に苦悩する人々ともとれる構図は、過去との決別と未来への憧憬を象徴
しているのかも知れない。そこには、見る人それぞれに何かを感じさせる力がある。

義父は、大正9年(1920)にイムレイが、アメリカ渡航をまえに東京で開いた個展を観たのかも
知れないし、この絵はその時に購入したのかもしれないが、今は、それを知るすべはない。

この貴重な一枚の絵は、今は亡き義父の思い出と共に我が家にあり、折にふれ飾って愉しんで
いる。 しかし、美術史の上からも貴重なこのイムレイの絵は、ガラクタ美術館に私蔵するよりは
義父の活躍した大阪の地にある国立国際美術館に寄贈した方が良いのではと考えている。 
義父もきっとそれを喜んでくれるのではないかと・・・・・・・



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by kame0401 | 2011-11-09 11:32 | 私のガラクタ美術館 | Comments(0)

人生二毛作を目指して・・・
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