2014年 06月 05日
思い出の「一枚の絵」
思い出の「一枚の絵」
1958年5月1日に描いた南アルプスの両股小屋で背景は間の岳である。F3号(22×27)のスケッチブックに
細いサインペンか何かで丹念に描いているもので、私には忘れられない思い出を秘めた一枚である。
南アルプス両股小屋と間の岳 1958.5.1
中学時代からの山仲間3人で5月の連休に南アルプスの「北岳」に挑んだ時の事である。Y君は伊那に住み
南アルプスを我が家の庭のようにしていた頼もしい仲間で、もう一人のH君は山登りが好きで会社を休み過ぎて
首になるほどの猛者で、気の合った三人組であった。4月29日に伊那から戸台を経て北沢小屋に入り、
翌30日に仙丈岳を越えばか尾根の途中でビバーグをして北岳に挑むと言うのがこの時の計画だった。
仙丈岳を越える頃までは順調だったが、陽が高くなると5月の稜線の雪も根腐れして一歩ごとに輪貫が沈み
雪の下にあるハイマツの枝に絡んで身動きが取れない状況が続いた。これは想定外でさしもの猛者?三人
ともに疲労困憊し、このまま進むのは無理だと判断せざるを得なくなった。そこで尾根から野呂川へ下ること
にし、ハイマツの斜面をやがて森林帯の雪の斜面をただやみくもに下り続けた。やっとのことで河縁まで
降りた時は陽も既に暮れていた。しかし目指す両股小屋がここから上流なのか下流の方なのかが解らない。
H君と私が上流と下流に分かれて探しに行くことにしたが、幸い私が少し上流の薄暗い林の中に中に小屋を
見付けることが出来た。ようやく辿りついた小屋で暫く放心状態で、食事もそこそこに死んだように眠りこんだ
のを覚えている。
翌日は一日骨休めとて絵を描いたり、単独行の先客と岩魚釣りを愉しんだりのんびり過ごした。そんなわけで
暇にまかせて、やけに細かく丁寧な線描きのこの絵が出来あがったわけである。この絵を見る度にしんど
かったあの山行きの苦くも懐かしい思い出が鮮明に蘇えるのである。
現在の両股小屋は新しく建て替えられて立派になっているらしいから、これは貴重な記録画と言うことになる。
翌年の5月に再度挑戦し、今度は野呂川を詰めて雪の北岳山頂を3人揃って踏むことが出来たが、いまは
H君もY君も既に亡く、当時を懐かしみ語り合うことは最早叶わない。
1959.5.3 登り終えた北岳をバックに吊尾根で記念写真 後ろの左がH君右がY君で前で座るのが私
1958年5月1日に描いた南アルプスの両股小屋で背景は間の岳である。F3号(22×27)のスケッチブックに
細いサインペンか何かで丹念に描いているもので、私には忘れられない思い出を秘めた一枚である。
南アルプス両股小屋と間の岳 1958.5.1
中学時代からの山仲間3人で5月の連休に南アルプスの「北岳」に挑んだ時の事である。Y君は伊那に住み
南アルプスを我が家の庭のようにしていた頼もしい仲間で、もう一人のH君は山登りが好きで会社を休み過ぎて
首になるほどの猛者で、気の合った三人組であった。4月29日に伊那から戸台を経て北沢小屋に入り、
翌30日に仙丈岳を越えばか尾根の途中でビバーグをして北岳に挑むと言うのがこの時の計画だった。
仙丈岳を越える頃までは順調だったが、陽が高くなると5月の稜線の雪も根腐れして一歩ごとに輪貫が沈み
雪の下にあるハイマツの枝に絡んで身動きが取れない状況が続いた。これは想定外でさしもの猛者?三人
ともに疲労困憊し、このまま進むのは無理だと判断せざるを得なくなった。そこで尾根から野呂川へ下ること
にし、ハイマツの斜面をやがて森林帯の雪の斜面をただやみくもに下り続けた。やっとのことで河縁まで
降りた時は陽も既に暮れていた。しかし目指す両股小屋がここから上流なのか下流の方なのかが解らない。
H君と私が上流と下流に分かれて探しに行くことにしたが、幸い私が少し上流の薄暗い林の中に中に小屋を
見付けることが出来た。ようやく辿りついた小屋で暫く放心状態で、食事もそこそこに死んだように眠りこんだ
のを覚えている。
翌日は一日骨休めとて絵を描いたり、単独行の先客と岩魚釣りを愉しんだりのんびり過ごした。そんなわけで
暇にまかせて、やけに細かく丁寧な線描きのこの絵が出来あがったわけである。この絵を見る度にしんど
かったあの山行きの苦くも懐かしい思い出が鮮明に蘇えるのである。
現在の両股小屋は新しく建て替えられて立派になっているらしいから、これは貴重な記録画と言うことになる。
翌年の5月に再度挑戦し、今度は野呂川を詰めて雪の北岳山頂を3人揃って踏むことが出来たが、いまは
H君もY君も既に亡く、当時を懐かしみ語り合うことは最早叶わない。
1959.5.3 登り終えた北岳をバックに吊尾根で記念写真 後ろの左がH君右がY君で前で座るのが私
by kame0401
| 2014-06-05 21:18
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