2013年 09月 18日
北穂高小屋と横尾岩小屋と
北穂高は昭和32(1957)の10月、友人のN君と二人で登ったのが最初である。大阪を夜行列車で
起ち、次の日は上高地を経て横尾の岩小屋に泊まり、翌日北穂の頂きに立って北穂小屋に泊まった。
帰路、私は東京へ出て友人のT君の下宿に潜り込み、翌日上野の国立博物館へ開かれていた学会で
小論文を発表するというへんてこりんなスケジュールの山行であった。
北穂小屋は他の一般的な山小屋とは違い、格別の趣きを持つ山小屋であった。机や椅子も民芸家具で
設えられ趣味の良い山小屋で聞きしに勝るその雰囲気に私は忽ち虜になった。この小屋はその後幾度か
増改築されたが、新たにオーディオ装置を備えたり、使われている皿やコーヒーカップに別注で高山植物の
イワツメクサの花をデザインするなど他の山小屋とは一味違う点は今も受け継がれている。私が最初に
訪れたのは当初の10坪程の小じんまりした山小屋だった。結婚したら彼女を連れてこようと、そのとき心に
決めたが実現したのは13年後のことである。
この北穂小屋は3000mの山頂の一角に、小山義治氏(大正5年・1920生)が卓抜した発想力と卓越
した行動力で建てた奇跡の山小屋なのである。敗戦間もない混乱の昭和22年(1947)に着手し翌昭和
23年(1948)に完成したこの小屋は、現在のようにヘリで資材を荷挙げすることなど出来なかった時代に
横尾の岩小屋に寝起きして樹を伐採し製材して、それを自力で担ぎあげたのである。100キロを遥かに
超えたであろう小屋の梁をあの場所にどうやって運び上げたのか神業としか思えない不思議である。
山小屋を自力で建てようと考えること自体が奇想天外な計画であり、上に掲げた彼の著書「穂高を愛して
二十年」を読み返してみて、今更ながら彼の凄さに鳥肌が立つのを覚えたことである。この本のカバーに
記された紹介の文章は「戦後の混乱期をいかに生くべきかを自らに問いつつ、遥か稜線上に資材を担ぎ
上げ山小屋を建てる・・・ 穂高に生きた山小屋主人の苦闘と喜びの記録。」とあるが、読み進めば本当に
その超人ぶりに改めて感動を覚えるのである。
「横尾岩小屋」 現在は崩落して岩小屋としては使えなくなり、
横尾岩小屋跡の標識が立っている。
昭和32年(1947)の北穂行のときは、同行のN君とこの岩小屋でシュラフザックに潜り込んだ懐かしい
ところである。この岩小屋は川を挟んで正面に屏風岩の大きな岸壁がそそりたち、この岩小屋で寝ると
屏風岩で死んだクライマーたちの幽霊がでるというので有名だった。はたせるかな夜中にシュラフで
寝ている私は顔を撫でられて眼が覚めた。隣で寝ているN君も同じように起こされた。エ―やっぱり幽霊
だと思ったが、それはどうやら岩小屋に棲むザトウムシの仕業ではないかと思い返した。別名メクラグモ
ともいうこのザトウムシは長い肢で探るように撫ぜながら歩く習性があり、これが顔の上を歩いたの
だろうと結論付けてまた眠りに着いたが、本当は幽霊だったのかもしれないと今でもフト想うことがある。
この岩小屋が小山氏の北穂小屋建設基地だったとは当時知らなかったが、その岩小屋もいまは崩れて
当時を偲ぶことも出来なくなり、屏風岩の幽霊たちも出る先を無くして困っているのではないのだろうか。